アルカンの生涯




 アルカンは1813年11月30日にパリで誕生しました。モランジュ家の長男でした。
アルカンの父親は非常に音楽教育に長けていたようで、兄弟そろって音楽の才能がありましたが、最も才覚があったのは長男でしょう。
そして何と6歳にしてパリ国立音楽院に入学!ピアノ、和声、オルガンのクラスで一等!そして13歳のときにはピアノ科の教授に就任しています。
恐るべしアルカン!ちなみに、アルカンの本名はCharles Henri Valentin Morhange(シャルル・アンリ・ヴァタンタン・モランジュ)というのですが、
アルカン自身はCharles-Valentin Alkan aine (シャルル=ヴァランタン・アルカン長兄)と名乗っていました。


さて、時はロマン派真っ盛り。1830年はショパンがパリで初演を行い、1831年にはベルリオーズの幻想交響曲が初演。
そして、あのヴァイオリンの悪魔ことパガニーニが活躍していました。
そんな中、アルカンはコンポーサー=ピアニストとして着実に人生を歩んでいました。
さて、当時最強のヴィルティオーゾ・ピアニストのフランツ・リスト。彼との出会いがやってきます。
サロンで見かけたそうですが、アルカンはリストの超絶技巧にショックを受け、3日間寝込んだそうです。
その後リストはコンポーサーとしてのアルカンを非常に高く評価し、ピアニストとしては、自分に匹敵する戦友?として認識していたとか。
そんな作品の一つが、「悲劇的な形式による3つの思い出 作品15」です。この作品については評論家としても有名だったシューマンも評価をしているのですが・・・




シューマンの評価 「この非芸術的で不自然な代物には呆れ果てるほか無い。」
リストの評価 「このカプリスはこの上なく抜きん出た作品であり、音楽家たちの興味を鮮烈にかきたてる力をもっている。」



さすがはリスト、ちゃんと見るべきところを見ていると言いたい!
聞けば分かりますが、(アムランなどが演奏しています)この曲が非芸術的とはとんでもないことです。
例えば、第2曲の「風」など徹底的な半音階の持続によって風の響きを表現するなどの試みが為されており、
大変効果的に曲が作られています。


さて、楽曲にまつわる話や細かいアルカンの話はアルカンの曲紹介で解説するとして、
その後、アルカンは1848年、ジメルマン(アルカンの師匠)の後継者争いに敗れ、さらに1849年には数少ない親友だったショパンが無くなり、
すっかりふさぎこんでしまいます。そうして1850年代には殆ど引き篭もり状態にありました。
しかし、1857年に「全ての短調による12の練習曲集 作品39」などの重要な作品を大量に出版しています。
これはどういうことなのでしょうか?最悪の状況のなかで、負の感情を全て芸術に昇華させていったのでしょうか?


さて、1873年、60歳になったアルカンは、弟ギュスターヴのマネージメントの元、コンサートを開いたようです。
その後、1877年までコンサートを開き続けました。以後、アルカンが公の場に現れるのはこのコンサートのみになります。


そして、1888年3月29日、アルカンはこの世を去りました。
宗教書の本棚が倒れて本に潰された説、食事の準備中に心臓発作で倒れた説、など諸説ありますが、アルカンの晩年に関しては謎が多すぎます。


さて、アルカンは敬虔なユダヤ教徒でした。これはアルカンに関して外せない事柄です。
アルカンの音楽には直接、宗教を扱ったものがあり、そうでないものにも宗教が感じられます。





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